何年か前、末期がんの患者さんを長く取材した記者の書いた本を読んだ。その中に、忘れられない一節があった。
「もう十分生きた。終わりにしたい」と何度も言い続けた患者が、医師に「まだできることがあります」と言われ続けた。緩和ケアに移ってからも、「苦痛を取ることはできる。でも死の手助けはできない」と言われた。本人が求めているものと、医療が提供できるものの間に、どうしても埋まらない溝があった、という話だった。
この問題は、誰かの悪意から生まれているわけではない。医師も、看護師も、家族も、みんなその人のことを思っている。それでも溝が生まれる。なぜなのか、少し整理してみたい。
世界では何が起きているか——安楽死・幇助自殺の現状
まず、世界の状況から確認したい。
オランダは2002年に安楽死を合法化した。「耐えられない苦痛があり、改善の見込みがない」という条件のもとで、患者の要請に基づき積極的安楽死が認められる。現在、年間8000件を超える実施がある。隣国ベルギーも同じ年に合法化し、2014年には年齢制限を撤廃した。
スイスは安楽死そのものは違法だが、「幇助自殺」——本人が自分で薬を飲む形での死の補助——は認められている。Dignitas(ディグニタス)という団体が支援を行っており、外国からの渡航者も受け入れる。日本人が利用したケースも報道されている。
カナダは2016年に「医療上の援助を受けた死(MAID)」として合法化し、適用範囲は段階的に拡大されてきた。アメリカでも、オレゴン州を皮切りに10以上の州で医師幇助自殺が認められている。
これらの国が命を軽く扱っているとは思わない。むしろ、「生の質」と「死の質」を同じ重さで考えることが、命を尊重することだという立場に立っている。どちらの立場が正しいかは簡単には言えないけれど、少なくとも「選択肢として存在する」世界と「存在しない」世界の違いは、当事者にとって大きい。
日本で安楽死が認められない理由
日本では、医師が患者を死なせる行為は殺人罪または自殺関与罪に問われる。1990年代の東海大学病院事件、川崎協同病院事件では医師が有罪判決を受け、その影響は今も医療界全体の「壁」として機能している。
理由は法律だけではない。文化的な背景も大きい。日本では「生命はとにかく尊い」という価値観が根強く、「諦めること」や「死を受け入れること」が後ろ向きに受け取られやすい側面がある。家族側からも、「まだ治療してほしい」「まだ諦めないでほしい」という要求が続くことが多い。
医師の倫理観も関わっている。「まず害を与えるな」というヒポクラテス的な精神は、「死をもたらすこと」を禁じる方向に働く。日本医師会も積極的安楽死には一貫して反対の立場をとっている。
これらの理由のどれも、「理解できない」ものではない。ただ、「理解できる」ことと「それが最善か」は別の問いだと思っている。
「生かし続けること」は誰のためか、という問い
これは少し不快な問いかもしれないけれど、考えてみたいことがある。
末期の患者を、本人の「終わりにしたい」という意思に反してでも生かし続けることは、誰のためになっているのか。
患者本人のためだけを考えれば、本人が「もう十分」と言っているなら、その意思を尊重することが「その人のため」ではないか。でも現実には、いくつもの「避けたい」が積み重なって、その意思が無効化されることがある。
病院にとっては、「患者を死なせた」という法的・社会的責任を回避したい。医師にとっては、「自分が死を招いた」という心理的負荷を避けたい。家族にとっては、「自分たちが諦めた」という罪悪感を持ちたくない。これらの「避けたい」は、それぞれ理解できる。でも、それらが重なった結果として、患者本人の声が脇に追いやられていないか。
これは医療者や家族を責めたいわけではない。構造の問題として見たい。個人の善悪ではなく、システムがどういうインセンティブを持っているか、という話だ。
「自己決定権」と「生命の尊重」——哲学的に整理する
この問題の核心には、二つの価値観の衝突がある。
一方には「自己決定権(Autonomy)」がある。自分の身体や生命に関することは、最終的に本人が決めるべきだという考え方だ。ジョン・スチュアート・ミルの言葉を借りれば、「他者に害を与えない限り、個人の選択は尊重されるべきだ」。この立場に立てば、死を選ぶことも、個人の権利として成立しうる。
もう一方には「生命の不可侵性(Sanctity of Life)」がある。生命は本人を含む誰かが意図的に終わらせていいものではない、という考え方だ。宗教的な背景を持つことが多いが、世俗的な観点からも「社会が個人の死を後押しすることの危険性」として論じられる。
この二つは、哲学的には「どちらが正しい」と決着がつかない。だから世界中で試行錯誤が続いている。
ただ、一つ考えておきたいことがある。「死ぬ権利を認めない」という立場は、「生命を尊重する」という名のもとに、「本人の最も根本的な決定権を剥奪する」という逆説を含んでいる。「生命を尊重すること」とは何かという問いは、思ったよりずっと複雑だ。
緩和ケアは「解決策」か、それとも「別の問い」か
「安楽死を認めなくても、緩和ケアを充実させればいい」という意見がある。これは大切な視点だと思う。適切な緩和ケアによって身体的な苦痛は大幅に軽減できる。それが整っていない環境での「死にたい」という言葉は、苦痛からの逃避として出てくる側面もあって、苦痛が取り除かれれば気持ちが変わるケースも多い。
でも、緩和ケアが対応できない苦しさもある。体の痛みではなく、「自分の意志を失っていく感覚」「完全に他者に依存することへの屈辱感」「ただ死を待つだけの時間の重さ」——これらは身体的な疼痛管理の枠をはみ出している。
2023年に大きく報道されたALS患者の安楽死事件(医師が患者の依頼に応じて薬物を投与した事件)は、多くの議論を呼んだ。賛否はあっていい。ただ私が気になったのは、「その医師は正しかったか」という問いより、「なぜその人が、日本の医療制度の中でその選択肢しか残されていなかったのか」という構造の問いをする人が少なかったことだ。
いくつかの視点を持ち寄ることしかできない
この問いに、一つの「正解」を出せるとは思っていない。
当事者の立場から見れば、「自分の終わりを自分で決められない」という無力感は、想像するだけでもつらい。医療者の立場から見れば、「死を手伝う」という行為の重さは、法律や倫理の問題だけでなく、心理的にも相当のことだ。社会の立場から見れば、「安楽死を認めること」が「弱者を切り捨てる方向に使われないか」という懸念は、根拠のない心配ではない。
どの視点も、無視できない何かを持っている。
私個人の感覚では、「死の選択肢があること」が、逆説的に「生きることへの意欲を支える」こともあると思っている。緩和ケアの研究でも、死の選択肢を持つ患者の多くが、最終的にその選択肢を使わずに亡くなっているという事実がある。「いざとなれば終わりにできる」という安心感が、「もう少し生きてみよう」を支えることがある。
「生かし続けること」が医療の使命だとするなら、その使命の中身を問い続けることも、医療の誠実さだと思っている。答えはまだ出ていない。でも、問いをやめることはないほうがいいと思う。
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