自分の周りにも、何かと人と比べたがる人がいる。給料、肩書き、フォロワー数、彼氏彼女がいるかどうか、子どもの偏差値……。「他人のことが気になって仕方ない」という状態の人は、案外多い気がしている。自分もそういう時期があったし、今でもふとした瞬間に「あの人より自分の方が……」という思考が顔を出すことはある。だから批判したいわけじゃなくて、この「なぜ比べてしまうのか」という問いがずっと気になっていた。
ちょっと調べたり考えたりしているうちに、「これって頭の使い方の問題なんじゃないか」という仮説が浮かんできて、今回はそれを書いてみようと思う。挑発的なタイトルをつけてしまったけど、最終的には自分へのメモみたいな話になっている。
そもそも「人と比べる」はなぜ起きるのか
心理学の世界には「社会的比較理論」というものがあって、1950年代にレオン・フェスティンガーという研究者が提唱した。人間はもともと、自分の能力や意見を評価するために他者と比較する本能を持っている、という理論だ。これ自体は悪いことじゃなくて、「自分が今どのくらいの位置にいるか」を知ることで適切な行動を選べる、という機能がある。
問題になるのは、この比較が「現状把握」から「承認欲求の充足」や「自己価値の確認」のためになったときだ。マズローの欲求階層で言うと、生存や安全が満たされた後に出てくる「帰属と愛の欲求」「承認欲求」あたりが関係している。承認欲求が強いほど、他人の評価や比較によって自分の価値を確認しようとする動機が強くなる傾向がある。
ダニング=クルーガー効果と「比較中毒」の関係
ダニング=クルーガー効果という心理現象がある。簡単に言うと、能力が低い人ほど「自分は能力が高い」と誤認しやすく、逆に本当に能力が高い人は「自分はまだまだだ」と感じやすい、という現象だ。これ、最初に聞いたとき「あるある」と感じた人は多いんじゃないかと思う。
この効果と「他人との比較」がどうつながるかというと、自分の能力を正確に把握できていない人は、自分の位置を確認するために他者との比較に頼りやすいという仮説が立つ。「自分がどのくらいのレベルにいるか」を内側から判断できないから、外側の他者を基準にするしかない。
逆に言えば、自分の強みや弱みをかなり正確に把握できている人は、他者との比較への依存度が低い傾向があるように見える。「あの人はあの人、自分は自分」というのを本当に思えている人は、自己認識の精度が高い人が多い気がする。
ゼロサム思考とポジティブサム思考の違い
競争を好む人の多くは、無意識に「ゼロサム」で世界を見ていると思う。ゼロサムというのは、誰かが得をすると誰かが損をする、という考え方で、パイの総量が固定されているイメージだ。「あの人が成功すると、自分のチャンスが減る」「あいつが褒められると、自分の評価が相対的に下がる」という発想がその典型。
一方でポジティブサム思考というのは、「パイ自体を大きくできる」という発想だ。あの人が成功することで市場が拡大して、自分にも機会が生まれる。優秀な人が周りにいることで、自分の思考水準が上がる。こっちの見方ができると、他人の成功が脅威ではなくて参考情報になる。
面白いのは、現実の多くの領域はゼロサムじゃないということだ。ゼロサムになるのは、たとえば同じポジションへの選考とか、限られた席の取り合いとか、構造的に一人しか選ばれない場面に限られる。それ以外の多くの場面では、他者の成功は自分の失敗を意味しない。なのに、ゼロサム思考で全部を解釈してしまうと、あらゆる他者が競合に見えてしまう。
SNSが「比較の常態化」を加速させた
10年前と比べると、他者と比較する機会は圧倒的に増えた。InstagramやXやTikTokを開けば、他者のハイライト映像が延々と流れてくる。旅行、収入、体型、人間関係、仕事の成果。これらは全部「その人の人生の良いところだけ」を切り取ったものなんだけど、見ているうちに「自分の日常」と無意識に比べてしまう。
ここで起きているのは、比較対象の非対称性という問題だ。自分が見ているのは「他人のハイライト」なのに、比較しているのは「自分の平均的な日常」。これは比べる土台が最初からズレていて、公平な比較じゃない。でも感情はそんな論理的な整理をしてくれないから、「自分はダメだ」という感覚だけが積み上がる。
SNSが普及してから孤独感や不安感が増したという研究は複数あるけど、この「比較の非対称性」の常態化が一因になっているんじゃないかと思っている。問題はSNSそのものじゃなくて、「見るものを全部自分への評価として受け取ってしまう習慣」の方だと感じている。
「自分の道」を歩くとはどういうことか
「賢い人は他人と比べない」という話はよく聞くけど、正確には「他人の物差しを自分の価値基準に採用しない」ということだと思っている。他者の存在を無視するわけじゃない。他者から学ぶことはたくさんある。ただ、「あの人がどう思うか」や「あの人より上か下か」が、自分の行動の主な動機になっていない、ということだ。
自分の価値基準が明確な人は、「他人の物差し」を借りる必要がない。自分が何を大切にしていて、どこに向かっていて、今日何をすべきかを自分で決められる。だから他者の状況が視界に入っても、それが「自分が正しいか間違っているか」の判断材料にならない。
逆に、自分の価値基準が曖昧な人ほど、他者の基準を借りて生きやすい。「あの人がやっているから」「みんながそうするから」「上の人より自分がマシかどうか」で日々を評価する。これが「他人の物差しで生きる」という状態だと思う。外部の評価に依存するほど、比較は止まらなくなる。なぜなら、評価の基準が外にあるかぎり、終わりがないからだ。
競争心の向ける先を変えるという話
「競争するな」と言いたいわけじゃない。競争心そのものはエネルギー源として機能することがある。問題は、その競争心が「他人に対して向いているか」それとも「過去の自分に対して向いているか」だと思っている。
「あいつより上にいたい」という動機で動くと、自分の成長よりも他者の失速を願うようになる。「昨日の自分より少し良くなりたい」という動機で動くと、他者の成功は関係なくなる。他者が急成長しても、自分の昨日と今日を比べていれば、それはそれで評価できる。
実際にこの切り替えをやってみると、最初は「物足りない」感じがある。他者との比較はわかりやすいスコアボードを提供してくれるから、刺激が強い。「昨日より少しだけ良くなった」というのは、地味で、外から見えにくい。でも長い目で見ると、この地味な積み上げの方が、自分にとってずっと意味のある変化につながる気がしている。
煽りっぽいタイトルをつけた手前、最後はちゃんと言っておこうと思うけど、「他人と比べてしまう」こと自体は、そんなに責める話じゃない。本能に近い話だから。ただ、その比較を「自分の価値を確かめるための唯一の手段」にしないこと、そこだけは意識しておきたいなと個人的には感じている。
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