受験勉強をしていると、ふと「これは何のためにやっているんだろう」と思う瞬間がある。英単語を1000個覚えても、大学に入ったら使わないかもしれない。複雑な因数分解を解けるようになっても、社会に出て使う場面は少ないかもしれない。それでも受験は続く。そしてその「競争」が、どうやら多くの人の人生に深く影響を与えている。この記事では、日本の受験競争を少し距離を置いて眺めてみようと思う。
受験制度の歴史――明治政府が作ったシステム
日本に「学歴」という概念が根付いた背景には、明治時代の学制設置がある。1872年(明治5年)に発布された学制は、日本初の近代的な教育制度で、「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という言葉が有名だ。
当時の目標は、西洋列強に並ぶための人材育成だった。国家が必要とする官吏・技術者・軍人を選別するために、試験という客観的な指標が求められた。帝国大学の入試、高等文官試験(今の国家公務員試験の前身)――これらが「試験を突破した人=優秀な人材」という等式を社会に浸透させていった。
戦後も、この構造は基本的に引き継がれた。1947年の教育基本法・学校教育法によって六三三四制が確立され、小中高大という段階が整備された。戦後の復興期、そして高度経済成長期に、大学卒業資格は安定した就職への切符として機能し、「いい大学に入ること」が「いい人生への道」と同義に語られるようになっていった。
偏差値の誕生――1957年、桑田昭三
「偏差値」という言葉は今や日常語のようになっているが、これが生まれたのは1957年で、考案者は東京都の教育研究所に勤めていた桑田昭三という人物だとされている。元々は都内の高校の学力を比較するための研究指標だったのが、やがて入試の選抜基準として全国に広まっていった。
偏差値そのものは統計上の指標で、集団の中で自分がどの位置にいるかを示すものに過ぎない。でも日本社会ではこの数値が、人間の価値を測る尺度のように機能してきた側面がある。「偏差値70の大学に入れば人生安泰」「偏差値45の高校に行くと就職が厳しい」みたいな語られ方だ。
個人的に興味深いと思うのは、偏差値は「他者との比較」でしか存在できない指標だという点だ。絶対的な学力ではなく、集団の中の相対的な位置を示すにすぎない。つまり受験競争が激化するほど、「全員の学力が上がっても偏差値の分布は変わらない」というゲームになる。これは本質的に、誰かの成功が誰かの失敗と表裏一体である、ゼロサムに近い構造だ。
共通テストの是非と、選抜方法の多様化
かつての「共通一次試験」(1979年開始)、それを引き継いだ「大学入試センター試験」(1990年開始)、そして現在の「大学入学共通テスト」(2021年開始)。マークシート式の一斉試験という形式は基本的に変わっていないが、その意義と限界については長年議論が続いている。
共通テストの利点として挙げられるのは、全国均一の基準で多様な受験生を比較できること、試験官の主観が入りにくいこと、一度の試験で多くの大学に出願できることなどだ。特に地方の受験生にとって、「同じ土俵で首都圏の受験生と勝負できる」という平等性は実質的な意味を持つ。
一方で批判もある。マークシートで測れる能力は限定的で、思考力・表現力・創造性といったものは評価しにくい。「正解のある問題を素早く解く力」と「正解のない問いに向き合う力」は別物なのに、前者だけで選抜している、という構造的な問題指摘だ。
こうした批判を受けて、推薦入試・総合型選抜(AO入試)の比率が年々増えてきている。文部科学省のデータによれば、私立大学では入学者の半数以上が推薦・AO経由というところも多い。国公立大学でも30%前後が一般選抜以外、という大学が出てきた。これは「多様な人材を多様な方法で選ぶ」という方向への緩やかな転換と言えるかもしれない。
アメリカのSAT、フィンランドの教育との比較
比較として引き合いに出されることが多いのがアメリカのSATとフィンランドの教育だ。
アメリカのSATは共通テストに一見似ているが、重要な違いがある。ほとんどの大学では、SATのスコアは選考要素の一つに過ぎず、課外活動・ボランティア・エッセイ・推薦状・面接など、複数の軸で評価される。しかも近年はSATをオプションにする大学が増えていて、「ペーパーテストで測れないものを重視する」という流れが強まっている。一方でアメリカの受験競争も激しく、ハーバードやMITの合格率は数%で、そこに向けた対策産業も巨大だ。「日本より多様だが競争は同様にある」というのが実態に近いと思う。
フィンランドはしばしば「世界一の教育」として語られる。PISA(国際学習到達度調査)での高い成績が注目を集めた。フィンランドでは、高校生まで全国一斉テストがほとんどなく、宿題も少なく、競争よりも協働と自律的な学習が重視される。大学入試も存在するが、日本ほど「受験対策」に特化した文化は生まれていない。「できる子を選抜する」より「全員のベースラインを上げる」という教育哲学の違いが根底にあるようだ。
「入試対策力」という問題
日本の受験を巡る議論でよく出てくるのが、「受験で測っているのは学力ではなく入試対策力だ」という指摘だ。これは個人的にけっこう核心を突いていると感じる。
たとえば、英語の受験問題で高得点を取っても、英語でコミュニケーションできるかどうかは別の話だ。数学の難問を解けても、データを使って何かを考察する力があるとは限らない。現代文の読解問題を解くスキルと、本当に読書を楽しんだり深く考えたりする力は、必ずしも同じではない。
受験勉強は「出題パターンを覚えて、そのパターンに素早く当てはめる練習」になりやすい。これ自体は一種の能力で、決して無価値ではないけれど、それが「学力」や「知性」の代理変数として使われるとき、どこかにズレが生じる気がする。
もう一つ気になっているのは、この構造が生む精神的なコストだ。「受験に失敗した自分はダメだ」という感覚を持ってしまった人の話を聞くことがある。でも受験の結果は、その人の可能性のほんの一側面を、ある特定の時点で切り取ったものでしかない。それで人の価値を測ろうとするのは、かなり雑な話だとも思う。
受験を否定するのではなく、評価軸の多様化を
受験そのものを「悪」と言いたいわけではない。一定の客観性をもって多くの受験生を比較する必要があるとき、ペーパーテストは一つの実用的な手段だ。「学ぶ習慣を身につける」という副次的な効果も、ゼロではない。日本の受験生が持つ基礎学力の水準の高さは、国際比較でも評価されている部分がある。
ただ、問題なのは「一種類の試験が、人の可能性のすべてを決めるかのように機能している」という構造だ。一つの軸しかないとき、そこで高得点を取ることへの圧力は極端に大きくなる。そして多様な才能や能力の持ち主が、その一軸では評価されずに「失敗」とラベルを貼られることになる。
評価軸が多様になれば、何かに秀でた人が異なる経路で活躍できる場が広がる。プレゼンテーションが抜群に上手い人、特定の分野への情熱が突出している人、チームをまとめる力がある人、そういう多様さを「入試」という制度の中でどう拾い上げるか、というのは難しい問いだけど、考え続けるべき問いだと思う。
個人的には、受験の結果がどうであれ、「自分が何を面白いと感じるか」「何を深く知りたいか」という感覚を失わないでいることが、長い目で見ると一番大事なんじゃないかという気がしている。制度は変わるけど、学ぶ理由は自分の中にある。そこだけは外からは奪えない、と思いたい。
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